祇園祭2017 後祭会所巡り(大船鉾・黒主山・浄妙山・鈴鹿山)
2017年 08月 12日
まずは巡行順を遡って、大船鉾~鈴鹿山までをお届けします。
曳初めの日の夕刻、仕事帰りに行ってきました。
まだ駒形提灯が飾られていないので、全容がよく見えます。
前祭の船鉾が螺鈿細工の舵を持つのに対し、こちらは刺繍による逸品です。
天保十年(1839年)作とのこと。呉服商であった大丸が寄進しました。
蛤御門の変で焼失した龍頭は同じく大丸が寄進したもので、文化元年(1804年)作だったそう。
兄弟龍ともいわれ、元々は大船鉾の龍がお兄ちゃんだったわけです。
文化元年といえば、天明の大火で焼失した大船鉾が復活した年なんです。
大丸さん、この時の復活に尽力されたわけですね。さすが!
二度の大火による焼失を乗り越え、再び平成の世に蘇った龍頭です。
巡行時は船首に乗ります。(ちなみに、前祭の船鉾でも安曇磯良は船尾の屋形に乗ります)
2015年に新調された「うこん地精好大口袴」など、衣装が鮮やかです。
隔年で交代とのことで、来年は龍頭ですね。
現在は木目の龍頭ですが、これから3度の漆塗りを経て、最終は金箔が貼られる予定だそうです。
今年の山六番です。
ここは会所飾りがカッコイイ!
役員の方も「いつもこっちが殺風景やったから、桜で飾って良かったわ!」とおっしゃってました。
古代、檜扇は悪霊退散に用いられたことから、祇園祭には欠かせない祭花となっています。
本番では桜を仰ぎ見る姿ですが、会所飾りでは何とも存在感のある表情です。
数ある祇園祭の山の中でも非常に躍動感のある、特徴的な御神体人形。
場面は平家物語、宇治川の戦い、橋合戦。
「また堂衆の中に、筒井の浄妙明秀は、褐の直垂に、黒革威の鎧着て、五枚兜の緒を締め、
黒漆の太刀を履き、二十四差いたる黒保呂の矢負ひ、塗籠籐の弓に、好む白柄の大薙刀
取り添へて、これもただ一人橋の上にぞ進んだる。」ベベベン(琵琶の音)
宇治橋で戦う筒井浄妙は24本の矢をあっという間に23本射掛けて12人を倒し、
11人に傷を負わせます。さらに弓と一本残った弓矢を投げ捨て、薙刀で応戦。
裸足になって、橋の骨をスルスルと進みます。そう、橋桁は平家軍の追討を恐れ、
前夜にはずしてしまってあったため、橋は骨組みだけだったのです。
5人を薙ぎ倒したあと、6人目で薙刀が折れて飛んでしまいます。すると、今度は
太刀を抜き戦います。八人を切り倒し、九人目に切りつけたところ、太刀が兜に当たり、
はずみで目釘のところから刀が抜けて川に落ちてしまいます。
なんという壮絶な戦い。浄妙は多勢に無勢で矢は尽き、刀は折れ、という状況で戦っています。
もはやこれまで。浄妙は残った腰刀(短い刀)を抜いて、死地を求めてさらに戦おうとします。
浄妙を助けようにも、橋桁はなく、いわば平均台のような橋の骨の上で戦っているため、
浄妙の前に出ることができません。
(浄妙山の飾りは漆塗りの立派な橋ですが、実はそうではなかった(笑))
一来法師、なんとそこで「悪しう候、浄妙坊」(悪く思うな、浄妙坊)と
オトコマエなセリフを吐いて、浄妙の兜に手を置いてポンと浄妙の上を乗り越えます。
いわば平均台の上でのアクロバット。敵の前線に躍り出た一来法師は奮戦の末、討ち死にします。
浄妙はその後、何とかしのいで平等院へ戻りましたが、奈良へ落ちる途中に亡くなったと言われます。
戦いは浄妙・一来の活躍で一時源氏が優位にたちますが、「馬筏」戦法で宇治川を渡った
平家軍に逆転され、平家の勝利となりました。
しかしこの戦が源氏興隆のきっかけとなったという事で、浄妙山は「勝ち運」の山と言われます。
山四番です。
鈴鹿権現をまつる山。その実は瀬織津姫神を祀っておられます。
片肌脱ぎの勇ましい姿とは対象的に、何とも優しいお顔の人形。
面の下は、絶世の美女とも言われます。なので優しいお顔のお人形だったのでしょうか。
鳥居の「鈴鹿山」の文字は明治時代の京都府知事槇村正直の筆だそうです。
皆川月華の作品です。
鈴鹿山の駒形提灯が青空の下に揺れていました。